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高美のストーリー

高密


1832年の彰化県誌によると「高密」が高美の旧名で、日本統治時代に今の名前、「高美」にしたとされている。高密という呼び名の由来は、はっきりしない。この土地に住んでいる人々のルーツを探っても(彼らのルーツは、中国福建省泉州地方)高密という名前は出てこない。しかし、古地図の中にその痕跡を見つけることができる。高美地区はその昔、四塊厝溪という渓があった。その渓は水深が深く底が見えないほどであった。西濱道路ができる前は、そこに住む人々は舟を漕いで四塊厝溪を渡り、高美湿地へ行き、そこで漁業を行っていた。四塊厝溪の水深が底が見えないほど深かったため、人々は舟を漕ぐのに、竹棹を用いていたが、その長い竹棹が、水の中に隠れるほどたった。このことから高美地区一帯を「高密」と呼ぶようになったといわれている。※また、台湾語で、竹竿の「竿」と「高」の発音が同じで、「密」には潜むという意味があることから、「高密」あるいは「篙密」と呼ばれたという説もある。

ただ、「高密」は、大甲溪南岸河口の三角洲にある溪底、番仔寮、頂海口、魚寮、 舊庄、頂牛埔、下牛埔、溪頭などの小さな集落を含む地域の呼び名で、以前は高密庄と呼ばれていた。それがすなわち今日の清水区の高美里、高西里、高南里、高北里という5つの里である。

高美地区が清水区にあるため、高美地区の発展を知るのには、まず清水地区の成り立ちを知る必要があるだろう。清水地区の成り立ちは、今から4500-3500年前の牛罵頭文化まで遡る。清朝の時代、漢人の勢力がまだ及ぶ前の清水区には、台湾先住民のタイヤル族が暮らしていた。紀元前5年ごろ、平埔族のパポラ族(Papora)がタイヤル族を山へ押しやり、自分たちがその空いた土地に住むようになった。1699年、清朝は、平埔族の吞宵社(通霄)の動乱を収め、清水地区に兵を駐屯させ、正式に清水区を掌握する権利を得た。1701年、漢人が移入し清水地区の開拓を始めた。生産と農業技術は平埔族より優れていたため、平埔族との勢力の差が徐々に開き始めた。この時期から漢人は清水地区を、開拓してきたが、高美地区を開拓したという記録は見出されていない。さらに、中部地区では、1786年の林爽文事件をきっかけに、大甲渓南岸に住んでいた広東籍漢人がその場所を追われ、南坑村、葫蘆墩と東勢角などの地に移住してきた。それが清水地区在住の漢人をさらに移住させることとなった。広東籍漢人が移住してきた場所は、今日では三田地区(同じく台中市清水区に位置している)と呼ばれ、その後、彼らの定住の地となった。清水区の集落の発展全体の流れを見れば、牛罵頭文化に端を発し、三田地区の発展、そして高美地区の開発へとなっている。その発展の移り変わりは、清朝の乾隆末期に建立された文興宮からも確認することができる。※※

文興宮

※ 蔡木森氏口述資料(一部)
※※ 参考資料:海洋台灣文教基金會網站、蔡紹斌著 《清水第一街-大街路,尋根溯源》,1996 年初版,地景企業股份有公司。